弓道の歴史

弓道の歴史

弓道史の転換期は明治維新前後です。近代以降、西洋の兵器が導入され、弓術は不要の産物になっていったのですが、明治維新がきっかけで、遊戯や娯楽として弓術が親しまれるようになりました。さらに明治中期になると、武術として推奨されるようにすらなりました。この時期に弓術が弓道に改称され、礼節を重んじる考え方に変わり、弓道が庶民の間に急速に広まっていったのです。この過程について、以下でもう少し詳しく解説していきます。

 

このページの目次

 

明治維新前後の弓道

幕末から明治にかけて戦闘の手段としての弓術は衰退していきました。幕末から明治になりそれまでの江戸時代の制度が崩壊し、西洋の火力に富んだ最新兵器が導入されるようになった為です。ただ確かに明治維新(1968年)以前は弓を引くこと自体に一定の制限すらありましたが、維新により緩和されてからは一般人の間でも弓を引く人が増え、遊戯化・娯楽化が進んでいきました。戦闘の手段としての弓術は衰退していきましたが、歓楽街における賭弓場の多くは風俗営業を行うことで大盛況したそうです。(明治政府から規制を加えられるほどだったらしい)

 

ただ盛況しすぎてもはや庶民の間では弓=賭弓場のイメージが出来上がってしまいました。その影響下で弓術古来からの伝統を引き継ぐ弓射文化が衰退していき、弓術道場が次から次へと姿を消していくことになったのです。ただそれでも日本古来の伝統的な弓道を守ろうとする熱心な弓術家がいたため弓術文化は無くならずに済んでいたのです。

 

明治維新時期の年表

 

1862年
幕府における「弓術上覧の儀」が廃止され、講武所の教科科目からも弓術が除外される。

 

1867年
大政奉還により幕藩体制・武家社会の崩壊が始まると共に、古来からの弓術は衰退を始める。地方ではまだ教育が行われていた。

 

1871年
廃藩置県により地方や藩での弓術教育も廃止されることになる。

 

明治中期の弓道

明治維新前後で急速な衰退を見せた弓術含む武術ですが、明治中期になると再燃しました。その背景としては

 

  • 初等教育の開始
  • 徴兵制度の開始
  • 日清戦争の勝利

 

などの社会・政治的な要因があります。ようは国策の1つとして武術が推奨されはじめたのです。

 

明治中期の弓道年表

 

1895年
京都在住の有識者により各種武術を統括する団体として「大日本武徳会」が設立される。

 

1919年
武術専門学校を武道専門学校と改称する。この時期に「弓術」が「弓道」と改称されることになる。

 

中期には弓道文化が盛り返しを見せました。ただ変化した点が1つ。弓術といえば賭弓場であった弓術衰退期の「中りさえすればいい」という考え方は廃れ、「射形が崩れなければ中ればいい」という精神や礼節を重んじる考え方にシフトしていきました。この考え方・気風の変化が弓道をさらに庶民の間に広めるきっかけとなったのです。